こんにちは。あいの里ブログチーム・法人事務局のKです。

当法人の法人新聞「環」で私が担当した連載企画として、地元・大東市龍間の伝説や歴史、雑学などを掘り下げていく「龍間をゆく」というコーナーがありました。

皆様にご好評いただいていた企画で、私も一生懸命調べたり、現地に足を運んだりと思い入れがあるので、記事の内容を当ブログに再掲していくことにしました。

今回は、「環」第13号に掲載した連載第2回「龍間の氷づくり」をお届けします。

天然の 氷製造 氷室跡(大東市郷土カルタより)

生駒山西麓に位置する龍間地区は、標高が高いため気温が低く、また豊富な清水に恵まれた土地であったので、昭和初期まで農家の冬場の副業として、良質の天然氷がつくられていました。当時の龍間は80軒余りの集落でしたが、そのなかで氷をつくる家は30軒余り、氷室は7軒余りにあったそうです。平安時代中期に成立した「延喜式」にも“河内国讃良氷室”(北御室が室池、南御室が龍間といわれる)として登場しています。冬場につくられた氷は、京や大阪へと運ばれていったそうです。

龍間の氷づくりは、近代に入って再び脚光を浴びはじめます。幕末期より氷ビジネスが盛んになっていくなか、明治23年には「龍文氷室」という会社が龍間地区の製氷権を掌握し、氷室を用いた昔ながらの氷づくりが最盛期を迎えます。しかし、同社が明治40年代に大阪で機械製氷の工場をつくるなど氷産業にも機械化の波が押し寄せ、徐々に天然氷は姿を消していきました。龍間神社の境内には「天然氷記念」と記された灯籠が奉納されています。昭和5年という奉納年は、氷づくりの終焉を物語っているのでしょうか。

平安時代、かの有名な清少納言も枕草子に「あてなるもの(高貴なるもの)。(中略)削り氷にあまづら入れて、新しき金椀に入れたる。」と記しており、かき氷などの氷菓は当時、夏の暑さを和らげるごちそうでした。

あいの里竜間で提供させていただいている毎日のお食事には、デザートとしてさまざまな甘味を添えています。メニューは季節の果物や洋風スイーツ、冷たい寒天寄せなど種類豊富。利用者様からも大変ご好評をいただいております。

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前回の記事はこちらです。

龍間をゆく 第1回 ~龍間の龍伝説~