こんにちは。あいの里ブログチーム・法人事務局のKです。

当法人の法人新聞「環」で私が担当した連載企画として、地元・大東市龍間の伝説や歴史、雑学などを掘り下げていく「龍間をゆく」というコーナーがありました。

皆様にご好評いただいていた企画で、私も一生懸命調べたり、現地に足を運んだりと思い入れがあるので、記事の内容を当ブログに再掲していくことにしました。

今回は、「環」第14号に掲載した連載第3回「阪奈道路と旧街道」をお届けします。

車いく 古堤街道 さまがわり(大東市郷土カルタより)

あいの里への移動に欠かせない阪奈道路は、昭和34年6月に開通しました。当時は有料道路でしたが、この道路の完成によって大阪-奈良間はそれまで主に利用されていた国道25号線よりも約14キロ短縮され、大阪と奈良を結ぶ主要道路となりました。その後、交通量の増加に伴い、龍間で分岐して中垣内に至る降り専用道が昭和45年3月に完成し、昭和56年には通行料無料となり現在に至っています。

そんな阪奈道路が、いわゆる旧街道を基にしていることはご存じでしょうか。古くは「大和街道」や「龍間越え」、明治時代からは古堤(ふるつつみ・こて)街道と呼ばれたその道は、河内平野が河内湖や深野池として水を湛えていた頃から大阪と奈良とを結ぶ重要な街道のひとつとして使われていました。当初は旧大和川の堤防上や新開地の北側堤防上を進み深野池は舟で渡っていましたが、承応4年(1655年)に現寝屋川筋の徳庵井路が開削されると、「徳庵堤」と呼ばれる堤防上を進み、宝永元年(1704年)の大和川付け替え後は、深野池開発による深野南新田内を横断するようになり、現在に見られる古堤街道が形成されました。『大阪府誌4編』によれば、四條畷小楠公、野崎観音、生駒山宝山寺に詣でる人々もこの道を通っていたようです。龍間の集落手前には「大文字茶屋」という茶屋があり、峠を越える旅人の休み処として欠かせない存在でした。現在は日本料理「大文字屋 龍田川」として、旬の食材を活かした「滋味一心」の日本料理を味わうことができます(完全予約制)。

大阪方面の絶景が売りのデイサービスセンターは、龍間地区は元より大東市内や生駒市内等の幅広いエリアからご利用いただいております。ご興味のある方は是非お気軽にお問い合わせくださいませ!(夕食の配食サービスも始めました)

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前回の記事はこちらです。

龍間をゆく 第2回 ~龍間の氷づくり~